ウィンストン・チャーチル

伝記

 今から約70年前の1938年。
ヨーロッパで戦争が、刻一刻と近づいていた。
戦争をちらつかせながら、法外な要求を、世界に向かって次々と突きつけてくるドイツの独裁者ヒトラーに、
周辺国(イギリスやフランスなど)は困り果てていた。

 1938年3月、”国際社会の厄介者ヒトラー”が、隣国オーストリアを併合し、
さらに半年後の9月、隣国チェコスロバキアの領土(ズデーテン地方)を要求しても、
イギリスやフランスは毅然とした態度をとろうとしなかった。
 これら民主主義諸国は、戦争だけはしたくなかったがために、
あるいは、まだ軍備が整っていなかったがために、”何をしでかすか分からない男ヒトラー”を、
はれものに触るように扱っていたのである。

 しかし、そうした”弱腰政策”を、批判し続ける男がいた。
イギリスの政治家ウィンストン・チャーチルである。
 ヒトラーの野心が、チェコスロバキアの領土(ズデーテン地方)に及んだ際にも、
チャーチルは”ヒトラーの要求に応ずるべきではない”との姿勢を明確にして、こう述べた。

「(ヒトラーの)脅威は、チェコスロバキアばかりでなく、
各国の自由と民主主義に、向けられたものだ。」

 だが時のイギリス首相ネヴィル・チェンバレンは、戦争を回避するため、
ヒトラーが欲しがっているもの(ズデーテン地方)を、そのまま彼に与えてしまう。

 当時のイギリス国民は、こうしたチェンバレンの”事なかれ政策”を支持した。
彼らは平和を維持できたことを素直に喜び、チェンバレン首相を称賛したのである。

 ところがチャーチルの反応たるや、国民とは正反対であった。
”チェンバレンの対応は間違っており、ヒトラーの要求は、これで終わったわけではない”と考えていたチャーチルは
「われわれは徹頭徹尾、敗北を喫したのだ。」と述べ、
英仏が友好国の領土(ズデーテン地方)を、ヒトラーに売り渡してしまった事について強く非難し、
さらに国民に向かって、こう警告した。

「我々は現在、この上ない惨事を迎えようとしています。
これで(ヒトラーの要求が)終わりと思ってはなりません。
(ヒトラーの)報復は、はじまったばかりなのです。
これは最初の味、我々が飲まなければならない、最初の苦い一口なのです。
この苦杯は、我々が道徳的健康と軍事的活力を最高度に回復させて、再び立ち上がり、
往時のように、自由を擁護しなければ、
年々われわれに、差し出されてくる事になるであろう。」

 こうしてチャーチルは、ミュンヘン協定(ズデーテン地方を、ヒトラーに譲渡した協定)について
舌鋒鋭く批判したわけだが、
そのチャーチル自身が、その意見ゆえに、周囲から激しく批判されてしまう。
 この時、国民的支持を得ていたのは、チャーチルではなくチェンバレン首相であり、
チャーチルの主張(ミュンヘン協定反対)に、耳を傾ける者は、まだ少なかったのである。

 ところがチャーチルの不吉な予言――
”ヒトラーの苦杯は、年々イギリスに、差し出されてくる事になるだろう”という予言は、
見事に的中することになる。
間もなくイギリスは、苦く、まずい酒を、
ヒトラーから無理やり飲まされるような目にあうことになった。

 チェンバレン首相が、ヒトラーと平和の約束(ミュンヘン協定)をかわしてから半年もたたないうちに、
ヒトラーは、その約束をやぶり捨て、ズデーテン地方だけでなく、
残りのチェコスロバキアもドイツの支配下においたのである。

 イギリスが飲まねばならぬヒトラーの苦杯は、これだけでは終わらなかった。
英仏の意向を無視したヒトラーの領土要求は、その後も続いた。
 ヒトラーは隣国ポーランドに、旧ドイツ領だった「ダンツィヒ」の返還を要求。
これをポーランドが拒否すると、ヒトラーは、ついに最後のカード(戦争のカード)を切った。
1939年9月1日、ヒトラー率いるドイツ軍が、ポーランドへの侵攻を開始。
その2日後(9月3日)、イギリスとフランスは、ヒトラーの侵略を阻止するため、ドイツに宣戦を布告した。
 こうしてイギリス人は”戦争”という最悪の苦杯を、飲むはめになったのである。

チャーチル首相の誕生

 イギリスがドイツとの戦争に突入すると、
チェンバレン首相は、チャーチルに入閣するよう要請した。
 この要請を喜んで引き受けたチャーチルは、1939年9月、海軍大臣に就任。
これでチャーチルは大臣のポストを手に入れたわけだが、その後、さらに大きな仕事がチャーチルにまわってきた。
海相就任から8ヶ月後の1940年5月10日、チェンバレン首相が、辞任に追い込まれると、
その後継首相としてチャーチルが選出されたのである。

 チャーチル首相の誕生――
当時のことを、後にチャーチルは、こう振り返っている。

「5月10日の夜、私は、一国の首相としての権力を握った。
ついに私は、全局に対して命令を発する権力を、握ったのである。
私は、あたかも運命と共に、歩いているように感じた。
そして全ての私の過去の生活は、ただこの時、この試練のための準備にすぎなかったように感じた。」

 この時、チャーチル、65才。
65年間の人生で積んできた経験を、フルに生かして、国難に立ち向かう事となった。
 イギリス首相となったチャーチルが、最優先で取り組まねばならない事は、
なんといっても8ヶ月前に始まったばかりのドイツとの戦争を、勝利に導くことである。
 首相に就任してから3日後の5月13日、チャーチルは首相として最初の演説を行なった。

「私には、血と労苦と涙と汗しか、提供できるものがない。
『我々の政策が何であるか』と尋ねられるならば、私はこう答えたい。
それは陸海空で、全力をあげて、戦争を戦うことである。
人類の犯罪の歴史に、例を見ない、この卑劣で暴虐の極みたる圧制(ヒトラーの政治)に対して、
全力を傾けて戦う――これが我々の政策である。
『我々の目的が、何であるか』と尋ねられるならば、私は一言で答えることができる。
『勝利』、あらゆる犠牲を払っての『勝利』、
そこに到る道が、いかに長く、かつ困難であろうと『勝利』が目的である。」

 こうして「勝利」への決意を、力強く語ったチャーチルだったが、
序盤戦は危機の連続で、勝利どころの話ではなかった。
屈辱的な敗戦の報ばかりが、チャーチルの下に、もたらされたのである。

 そのチャーチルとは対照的に、輝かしい戦勝を次々と手にしたのは、ヒトラーの方であった。
ヒトラー率いる”無敵のナチス・ドイツ軍”が、ヨーロッパ中を荒らしまわったのである。
 1940年5月10日、ドイツ軍はオランダとベルギーへの侵攻を開始し、
この2国を、一撃の下に粉砕してしまう。
5月15日には、オランダを降伏させ、その約2週間後の5月27日には、ベルギーを降伏させた。

 さらにヒトラーの軍団は、ヨーロッパ大陸で戦っていたイギリスとフランスの連合軍にも、容赦なく襲いかかった。
ドイツ軍の猛攻によって、英仏連合軍は、北フランスのダンケルクの海岸に追いつめられ、
対岸にあるイギリス本土への退却を余儀なくされた。

 いつ終わるともしれぬ負け戦の繰り返し――それでもチャーチルの士気が、失われることは無かった。
英仏連合軍が、ダンケルクから撤退した後の6月4日、チャーチルは下院で、こう演説した。

「ヨーロッパの大部分の領土と、多くの有名な国々が、
嫌悪すべきナチ(ドイツ)の支配装置の手中に落ちたとしても、
我々は、ひるみはしないし、くじけはしない。
我々は最後まで戦い続ける。
フランスで、海で、そして募りゆく自信と戦力でもって、空で戦う。
いかなる犠牲を払っても、我々の島国(イギリス)を守るであろう。
海岸で、上陸地点で、平原と街路で、そして高地で戦う。
我々は、決して降伏しない。」

 ”いかに戦況が不利になっても、イギリスはドイツに徹底抗戦する”という力強いメッセージであったが、
このチャーチルの執念とは裏腹に、イギリスの足場は、崩れ落ちていくばかりであった。
 ”徹底抗戦演説”から10日たった6月14日には、フランスの首都パリが、ドイツ軍に占領され、
その約1週間後の6月22日、イギリスにとって最も頼りになるはずのフランスが、
ついにドイツに降伏してしまったのである。

 このフランスの敗北と戦線離脱により、イギリスは、まったく孤立してしまった。
イギリスの友人であるアメリカは、まだ参戦してなかった。
今やイギリス1国だけで、ヒトラーに立ち向かわねばならなくなったのである。

ヒトラーの平和演説

 フランスの降伏により、もはやイギリスの命運も、風前の灯のように思われた。
ヨーロッパの支配者となった、強大なヒトラーを相手に戦って、果たしてイギリスに勝ち目があるだろうか。
 一方、極めて有利な立場にあるヒトラーは、孤立したイギリスに対して、どう打って出るだろうか。
 世界中が固唾を呑んで、ヒトラーの出方を見守る中、ドイツ帝国総統は、ここで意外な行動に出る。
イギリスに和平を呼びかけたのである。
フランス降伏から約1ヵ月たった7月19日、ヒトラーは国会の演説の中で、こう述べた。

「私は、そもそも世界帝国(イギリス)を破壊するどころか、傷つけようとも思っていない。
この時にあたって私は、自己の良心に基づいて、イギリスにもう一度、分別を求めずにはいられない。
あえて戦争を続けねばならない根拠など、見当たらない。」

 こうしてヒトラーは、イギリスに向けて”和平”をアピールしたわけだが、
それに対して、イギリスのリーダー(チャーチル首相)は、どう反応したか。
 チャーチルは、ヒトラーの和平提案に「NO」を突きつけるつもりだった。
ヒトラーの和平提案が、しょせんヒトラーにとってのみ、都合の良いものにすぎない事を、
チャーチルは見抜いていたのだろう、後にチャーチルは、ヒトラーの和平提案について、こう書いている。

「ヒトラーにしてみれば、ヨーロッパを意のままに屈服させておいて、
それに対するイギリスの承認を得ることで、戦争を終わらせたいところであったろう。
実は、それは和平提案ではなく、イギリスが戦争に突入する根拠になったもの
(侵略の阻止、ドイツ強国化の阻止、自由の擁護など)を、
イギリスに放棄させようとする意図を示したものであった。」

 チャーチルは、このまま戦争を終わらせて、
それによって”ヒトラーのヨーロッパ支配”を承認する気など、全くなかったのである。
そしてチャーチル政権は、ヒトラーの和平提案に対して、こう返答したのだった。

「ドイツは、もし平和をあがなうつもりなら、まず占領した全地域から撤退し、
奪取した全ての自由を戻し、さらに将来の保証を与えなければならぬ。」

 このイギリス政府の回答に、ヒトラーは激怒した。
むろんヒトラーには「占領した全地域から撤退」するつもりなど、毛頭ない。
ドイツにとって有利な条件で、イギリスとの戦争を、早期に終結させる――それがヒトラーの狙いだったが、
チャーチルはドイツとの戦争を放棄しようとせず、ヒトラーの”勝ち逃げ”を許そうとはしなかった。

 事ここに至っては、ヒトラーがイギリスとの戦争を、早く終わらせるには、
以下の2つの方法しか無くなった。

1、「占領した全地域から撤退」して、チャーチル首相と和平を結ぶ。

2、武力によって、イギリスを征服してしまう。

 ヒトラーは、後者を選ぶことにした。
つまり「イギリス上陸作戦(あしか作戦、とど作戦)」を採用し、イギリス本土を制圧する事にしたのである。

英独、空の戦いへ

 ヒトラーは、イギリス本土への侵攻を決意した。
だが四方を海に囲まれた、島国のイギリスに対して、ヒトラーはどう攻めるつもりだろうか。
 まず最初に、「空軍」を主体にした攻撃を行なう――それがヒトラーとドイツ軍部の考えだった。
 1940年8月1日、ヒトラーは次のような命令を下した。

「イギリス本国に対する、(ドイツ)空軍による総攻撃を、8月5日をもって開始する。
目的は、敵空軍の撃滅にある。」

 ヒトラーは戦闘機と爆撃機の大群を、イギリス上空に送り込んで、
イギリス空軍を壊滅させるつもりだったのである
(総攻撃の開始日は、その後8月13日に変更された)。

 だがイギリスも手をこまねいていたわけではない。
イギリスを侵略しにやってくるドイツ空軍を返り討ちにするため、
ドイツ機の接近を、事前に探知する”レーダー網”を整備し、
航空機製造相ビーバーブルックの指導の下、軍用機の増産に励んでいたのである。

 こうしてイギリス、ドイツ双方とも、空の戦いで勝利するため、着々と準備を進めていた。
 そして間もなく両者は、イギリス上空で、激しく火花を散らす事となる。

決して負けることが許されぬ戦い――
バトル・オブ・ブリテン

 1940年8月13日、ついにドイツ空軍が、島国イギリスへの総攻撃を開始した。
イギリス征服に向けた、ヒトラーの軍事行動が、本格的に始まったのである。

 ヒトラーの空からの侵略に対して、イギリスは主力戦闘機「スピットファイア」と「ハリケーン」で応戦した。
イギリスにとって、これは”祖国防衛の戦い”であり、”決して負けることが許されぬ戦い”であった。
もしイギリスが、この空の戦い(バトル・オブ・ブリテン、イギリスの戦い)に敗れ、制空権を失うことになれば、
イギリスの生存は危うくなるだろう。
大英帝国の存亡をかけた”熱い戦い”が、8月の真夏の空で展開された。

 ドイツ空軍との空中戦において、飛行機の数のうえでは、イギリスは劣勢に立っていた。
イギリスの爆撃機は350機しかなかったが、ドイツの爆撃機は1900機もあった。
またイギリスは戦闘機を750機、所有していたが、
ドイツはそれを上回る1100機もの戦闘機を所有していた。

 しかし数で勝るドイツ空軍にも、弱点があった。
ドイツの主力戦闘機「メッサーシュミットMe-109」は、航続距離に難点があった。
ヨーロッパ大陸とイギリス本土をへだてる「英仏海峡」を越えてから、
わずか20分程度しか滞空できなかったのである。

 海の向こうから次々と襲来してくるドイツ機に対して、イギリス空軍は、互角以上に戦った。
ドイツ空軍が総攻撃を開始してから2日後の8月15日は、激戦となったが、
この日イギリス空軍は、34機の損害を出しながらも、
ドイツ軍に、倍以上の76機もの損害を与えたのである。

 だが8月24日からドイツ爆撃機が、連続して”イギリスの飛行場”を爆撃するようになると、
イギリス空軍は危機に陥った。
ドイツ空軍は、大英帝国を崖っぷちへ追い込むべく、
イギリス空軍の弱点(飛行場)を、正確に攻撃しはじめたのである。

 翌日の8月25日、イギリスも反撃に出た。
イギリスの爆撃機が”ドイツの首都ベルリン”を空爆し、ドイツの民間人を殺傷したのだった。

 この”ベルリン空爆”に、ヒトラーは激高した。

「私は『イギリス人だけは、見逃してやろう』と思った。
ところが彼らは、私の人道主義を、弱気と受け取り、回答としてドイツの婦女子を殺害したのだ。
こうなった以上、私は彼らの街を、完全に破壊しつくしてしまう方針に踏み切る。」

 復讐を決意したヒトラーは「彼ら(イギリス人)の街を、完全に破壊しつくしてしまう」ため、
爆撃の標的を、”飛行場”から”都市”へと変更するよう命令。
このヒトラーの命令によりドイツ爆撃機は、
9月7日から”イギリスの首都ロンドン”に、猛爆撃を加えはじめた。

 だがこれは、ヒトラーが犯した大失策であった。
イギリスとの戦争に勝ちたいのであれば、ヒトラーは”都市”ではなく”飛行場”を爆撃すべきだった。
ヒトラーが”都市攻撃”を命令するまでは、ドイツ空軍は、主に”飛行場”を爆撃していた。
ドイツ軍は、その”飛行場への爆撃”を継続すべきだったのである。
 だがヒトラーは”飛行場ではなく、都市を空爆せよ”と方針を変更してしまった。
このヒトラーの方針転換が、結果としてイギリスを救うことになってしまう。
 後にチャーチルは述べている。

「我々にとって重大なことは、飛行場と、そこから作戦行動に移る戦闘機隊の機能と連絡であった。
もし敵が(飛行場への)猛攻を繰り返して、作戦室や電話連絡を破壊すれば、
戦闘機大隊本部の複雑な組織全体が、崩壊したかもしれない。
このためドイツ軍の攻撃が9月7日に、ロンドンに向けられたのを知り、
わが戦闘機部隊指令は、ホッとした気持ちになったのだった。
ゲーリング(ドイツ空軍の総司令官)は、飛行場への攻撃を続けるべきであった。
というのはイギリス空軍の全戦闘力が、その組織と連絡に依存していたのだ。
(ドイツ空軍による)ロンドンへの夜間攻撃は、多数の市民を殺傷したが、
これは我々にとっては、最も必要とした息抜きの期間となった。」

 つまりドイツ空軍は、ヒトラーが方針を変更するまでは、
正確にイギリスの急所(飛行場)を攻撃し続けていた。
あと1歩でイギリス空軍の息の根を止めることが出来たかもしれなかった。
 にもかかわらずヒトラーは、攻撃対象を”飛行場”から”都市”へと変更してしまい、
”大英帝国の征服”という、目もくらむような大勝利を、みすみす逃してしまったのである。

 こうしてヒトラーが犯した判断ミスのおかげで、
イギリス空軍は、致命傷を受けずに済んだ。
 それとは対照的に、ドイツ空軍の損害は、うなぎのぼりになっていく。
8月から9月までの間にドイツは、1244機もの軍用機を失った
(それに対してイギリス側の損害は、約半分程度の723機だった)。

 さすがのヒトラーも、大きな痛手をこうむったドイツ空軍を目のあたりにして、
イギリス征服を大幅に延期せざるをえなくなった。
イギリスへの総攻撃を開始してから約1ヶ月後の1940年9月17日、
ヒトラーは「イギリス上陸作戦(あしか作戦、シー・ライオン作戦)」の無期延期を決定。

 ただし、これで”ドイツ空軍によるイギリス本土への攻撃”が、完全に終わったわけではない。
その後も、ロンドンへの空襲は続いた。
 しかし”イギリス本土へのドイツ陸軍の上陸”という悪夢は、雲散霧消した。
”イギリス空軍のパイロットの奮闘”と”チャーチル首相の指導”の下、
イギリス国民は、イギリス史上、最大級の危機を乗り切ったのである。

 チャーチルは下院で演説をし、命を賭けて祖国を守り抜いたパイロットたちの活躍を称賛した。

「人類の闘争の場において、このように多数の人間(イギリス国民など)が、
このような大きな恩恵を、このような少数の人間(パイロットたち)によって受けたことは、
いまだかつて無かったのであります。」



【参考文献】
第二次世界大戦1」ウィンストン・チャーチル(河出書房新社)
第二次世界大戦2」ウィンストン・チャーチル(河出書房新社)
大英帝国衰亡史」中西輝政(PHP研究所)
実録 第二次世界大戦1 ドイツ軍の電撃作戦」レイモン・カルチェ(小学館)
ヒトラー対チャーチル」ジョン・ルカーチ(共同通信社)
チャーチル」ロバート・ペイン(法政大学出版局)
世界の歴史28」油井大三郎、古田元夫(中央公論新社)
アドルフ・ヒトラー 五つの肖像」グイド・クノップ(原書房)
20世紀 欧州大戦」読売新聞20世紀取材班(中央公論新社)
燃え続けた20世紀 戦争の世界史 それは大英帝国の凋落から始まった
エイブラム・レオン・サッチャー(祥伝社)
評伝アドルフ・ヒトラー」加瀬俊一(文藝春秋)
チャーチル」ロード・モーラン(河出書房新社)
チャーチル伝」ルイス・ブロード(恒文社)
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