アドルフ・ヒトラー

伝記

1933年1月30日、ドイツ首相に就任したアドルフ・ヒトラーは、
そのわずか2ヶ月後の3月23日、「全権委任法」を議会で通過させ、独裁権を手に入れた。
独裁者として、ドイツに君臨するようになったヒトラー総統は、その後、周辺諸国の侵略へと乗り出していく。

1938年3月13日、ドイツの隣国オーストリアを、併合することに成功したヒトラーは、
次のターゲットに、隣国チェコスロヴァキアを選んだ。
チェコスロバキア国内にある「ズデーテン地方」に、ヒトラーは目をつけた。
ドイツ国境に接する「ズデーテン地方」は、300万人のドイツ民族が住む地域であり、
彼らズデーテン・ドイツ人たちは、チェコスロヴァキア政府に不満を抱き、
”祖国ドイツへの復帰運動”を起こしていたのである。

ヒトラーは、演説で次のように述べた。
「我が国(ドイツ)との国境地帯に居住するドイツ系住民が、
自力では、政治的自由と精神的自由を確保できない場合、
その人々を保護することが、ドイツ帝国の関心事である。」

”外国に住むドイツ民族の保護”を口実にして、チェコスロバキアに軍事介入する――
それがヒトラーの目論見であった。

1938年5月には”ドイツ軍が、国境地帯に集結している”というウワサが流れるなど、
ドイツとチェコスロバキア間の緊張が高まったため、イギリスが調停に乗り出した。
9月22日、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは、ドイツにおもむき、ヒトラーと会談した。

会談2日目の9月23日、ヒトラーはチェンバレンにこう述べた。
”チェコスロヴァキアは10月1日までに、ズデーテン地方をドイツに引き渡さねばならない”と。

このヒトラーの要求は、性急かつ理不尽きわまりないものであった。
10月1日といえば、あと1週間程度しかない。
また、ズデーテン地方には、多くのドイツ系住民が住んでいるとはいえ、
あくまで外国(チェコスロヴァキア)の領土である。

チェコスロヴァキアにしてみれば、ヒトラーの要求は、言語道断であった。
当然チェコスロヴァキアは、ヒトラーの要求を拒絶した。

9月26日、ウィルソン(チェンバレン首相の特使)が、そのこと(チェコスロヴァキアの拒否)を、
ヒトラーに伝えると、
ヒトラーは「それなら戦争しかない。」と言い切った。
さらにヒトラーは「このうえ、議論の必要はない。
チェコスロヴァキアは、ドイツの条件を受諾し、
10月1日までに割譲地帯(ズデーテン地方)を占領させねばならん。
期限が到来すれば、(ドイツ軍は)断固、進撃する。」と述べた。

これで戦争の危機が、一気に高まった。
もし戦争になれば、チェコスロバキアと同盟関係にあるフランスが、ドイツとの戦争に巻き込まれるだろう。
そうなるとイギリスも、傍観するわけにはいかなくなる。

イギリス首相チェンバレンは、なんとしてでも戦争だけは避けたかった。
そこで彼は、イタリアの独裁者ムッソリーニに、調停を依頼。
調停役を引き受けたムッソリーニや英仏が、ヒトラーへ働きかけた結果、
ヒトラーは、4大国(ドイツ・イギリス・フランス・イタリア)による首脳会談を開くことに同意した。
この首脳会談では、チェコスロヴァキアの領土問題(ズデーテン問題)が話し合われる事になる。
にもかかわらずチェコスロヴァキアは、この首脳会談に招待すらされなかった。
小国を犠牲にし、大国同士で、全てが決定される運びとなったのである。

9月29日、4大国の首脳(ヒトラー、チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニ)が、ミュンヘンに集まった。
ミュンヘン会談で英仏は、ヒトラーの言い分の、ほぼ全てを受け入れる事にした。
つまり10月1日に、ドイツがズデーテン地方を軍事占領することを、認めてしまったのである。

この大国間の身勝手な決定を、小国チェコスロバキアは、泣く泣く受け入れるしかなかった。
英仏の支援が得られないまま、ドイツとの戦争に挑んでも、勝ち目など全く無かったからである。

このミュンヘンの合意(ミュンヘン協定)に、イギリス首相チェンバレンは満足していた。
これで平和が守られるだろう。
なにしろヒトラーは”ズデーテン地方が、最後の領土的要求であり、
チェコスロヴァキアの独立を、侵害するつもりはない”と、何度も口にしている。

ベルリンのスポーツ宮殿で、ヒトラーはこう演説していた。
「私は彼(チェンバレン)に、『この問題(ズデーテン問題)が解決されれば、
ドイツにとってヨーロッパでの領土問題は、もはや存在しない』と確約したが、
ここで、それをもう1度、語ろう。
我々は、1人のチェコ人も望んでいないのだ。」

またチェンバレンは9月27日、ヒトラーから手紙を受け取ったが、それには、こう書かれていた。
「『今回の措置(ズデーテン割譲)で、チェコスロヴァキアが、
国家としての存亡、政治的・経済的独立を脅かされる』という主張そのものが、完全に間違っております。
ドイツの占領は、与えられた線(ズデーテン割譲の線)までにすぎず、
最終的な国境線は、すでに、お示しした通りであります。
『(ドイツの)軍事行動が、国境線を越える』という疑念を抱く権利は、
プラハ政府(チェコスロヴァキア政府)にはありません。
昨日の演説で、私は『チェコスロヴァキアへの攻撃は、認めない』と明言しました。
でありますから、チェコスロヴァキアの独立への脅威など、ありえないのです。」

ミュンヘンから帰国して、飛行場に降り立ったチェンバレンは、ヒトラーと交わした合意書を、皆に見せて、
「我々の時代の平和は、確保された。」と満足げに語った。
イギリス国民も、平和を守り抜いたチェンバレンの活躍に、おしみない賛辞を送った。

しかし彼らの喜びも、間もなく、ぬか喜びに変わる運命にあった。
ヒトラーは、ミュンヘンでの合意を守るつもりなど、さらさら無かったのである。

ヒトラーは、国際的な約束について、こう述べたことがある。
「私は、何にでも署名するよ。
私の政策を実現するためには、何でもする。
相手が誰でも、国境線の保証でも、不可侵条約でも、友好同盟でも、結ぶつもりだ。
『約束をやぶる可能性があるから』といって、こういう手段を利用しないのは、愚の骨頂だ。
これまでも条約というものは全て、やぶられたり、維持できなくなったものだ。
永久に続く条約など、ありはしない。
『どんな状況になっても守られる、と確信しない限り、署名しない』という”やわな良心”をもつのは、愚か者だ。
相手は『これで何かが達成できた』とか『調整できた』と喜んでいるんだ。
相手を喜ばせて、こちらも、やりやすくなる。
署名してやれば、いいじゃないか。
今日、真面目に合意して、明日それをやぶる事になっても、ためらう事はない。
ドイツ民族の未来が、かかっているのだからな。」

1939年3月15日、ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領エミール・ハーハと会談した。
この時、ミュンヘンでの合意(ミュンヘン協定)から、まだ半年もたっていなかったが、
すでにヒトラーは、ミュンヘン協定をやぶり捨て、チェコスロヴァキアを、ドイツの支配下に置く決意を固めていた。
ヒトラーは、ハーハに向かって、冷たくこう言い放った。

「実力によって、チェコを併合することにして、既に進軍命令を下した。
午前6時には、国境を突破する。
もし抵抗すれば、全土を仮借なく破壊するが、
恭順すれば、チェコ民族に再生の機会を与えよう。」

次に、ハーハの前に文書が差し出された。それには、こう書かれていた。

「チェコスロヴァキア大統領は、最終的な和平を達成するため、
チェコの国民と国土の運命を、信頼をこめて、
ドイツ帝国総統(ヒトラー)の手にゆだねると、ここに宣言する。」

”戦争によって、八つ裂きにされたくなかったら、おとなしく、これにサインしろ”というわけだ。
このマフィア顔負けの脅迫に、ハーハは必死に抵抗したが、それも長くは続かなかった。
ヒトラーの圧力と恫喝に屈し、ついに文書にサインしてしまったのである。

これでチェコスロヴァキアが、ドイツの支配下に置かれることが決まった。
チェコスロヴァキア大統領の公認の下、ドイツ軍は国境を越え、プラハ(チェコスロヴァキアの首都)を占領、
こうしてチェコスロヴァキアという国家は、あっけなく地球上から消滅したのだった。

ナチスドイツによる、チェコスロヴァキアの解体と併合――
この予想外の事態に、ヨーロッパの人々は、大きなショックを受けた。
ヒトラーは”ズデーテン地方が、最後の領土的要求であり、
チェコスロバキアの独立を、侵害するつもりはない”と公言していたではないか。
そのヒトラーの約束は、全てウソだったというのか。

ヨーロッパの人々は、今さらになって、ヒトラーの邪悪な本性に、気づいたのだった。
もちろんイギリス首相チェンバレンは、このヒトラーの裏切り行為について、強く非難したが、
もはや手遅れであった。

これでヒトラーは、オーストリア、チェコスロヴァキアの2国を、まんまと手に入れたわけだ。
しかも、戦争を全くせずにである。
だが彼は、これだけでは満足しなかった。
彼の貪欲さは、とどまる事を知らなかった。
次のヒトラーの標的となったのは、ポーランドである。

ヒトラーは、旧ドイツ領だった「ダンツィヒ」の返還を、ポーランドに要求。
しかしポーランドは、これを拒否。
英仏も、ポーランドへの支援を与えた。
だが英仏とポーランドの強硬姿勢をもってしてでも、ヒトラーを制止することは出来なかった。
1939年9月1日、ついにドイツ軍は、ポーランドへの侵攻を開始。
その2日後(9月3日)には英仏が、ヒトラーの侵略を阻止するため、ドイツへの宣戦を布告した。
そしてこれが、世界的な大戦争(第二次世界大戦)のはじまりとなった。

ミュンヘン会談後、イギリス首相チェンバレンは「我々の時代の平和は、確保された。」と述べたが、
それから、まだ1年もたっていない時点で起きた悲劇だった。
こうして平和は、あっけなく崩れ去ってしまったのである。



【参考文献】
アドルフ・ヒトラー 五つの肖像」グイド・クノップ(原書房)
ヒトラー ある《革命家》の肖像」マーティン・ハウスデン(三交社)
ヒトラーという男 史上最大のデマゴーグ」ハラルト・シュテファン(講談社)
評伝アドルフ・ヒトラー」加瀬俊一(文藝春秋)
世界の歴史 26 世界大戦と現代文化の開幕」 木村靖二、柴宜弘、長沼秀世(中央公論新社)
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