フランクリン・デラノ・ルーズベルト

伝記

ルーズベルトは、アメリカ史上唯一、4選された大統領であり、
またアメリカ史上唯一、重度の身体障害を持つ大統領でもある。
ところが当時のアメリカ国民は、ルーズベルト大統領が身体障害者であったことを、
ほとんど知らなかった。
というのも当時のマスコミが、あえて積極的に報道しなかったためである。

アメリカは戦争(第二次世界大戦)には勝ったが、東ヨーロッパは、ソ連の支配下に置かれた。
満洲と中国から日本軍を追い出したが、その代わり中国全域が、共産党の支配下に置かれた。
かつてヒトラーが征服を夢みた地域よりも、はるかに広大な地域に、
”全体主義的な専制政治”が台頭する事となった。

ハル国務長官は”緩やかな妥協案”を作成していたが、
ルーズベルト大統領は、ハリー・デクスター・ホワイト財務次官が作成した”対日強硬案”の方を採用した。
”VENONA資料”によれば、ホワイト財務次官は、ソ連のスパイであった。
彼はソ連に、アメリカ政府の極秘情報を流したり、現金をもらったりしていた。
パブロフ(ソ連の工作員)は、ホワイト財務次官と密会し、
日本とアメリカが交戦するよう仕向ける外交案の作成を、要請していたのだった。

ルーズベルトは「社会保障法」を、ニューディールの要と考えた。
社会保障制度により、退職年金制度が確立され、
失業者、貧困層、障害者のための、福祉給付制度がつくられた。
当時、多くの工業国では、こうした制度が、すでに実施されていたが、
アメリカでは、そういった制度を希求する声が、それまで無視されてきた。

ルーズベルトはラジオ演説で、こう述べた。
「偉大な国家から、民主主義が消滅した例がいくつかあるが、
その原因は、国民が民主主義を嫌ったからではなく、
国民が失業と不安定に疲れ、また指導力の欠如による政府の混乱と弱体の中で、
なすすべもなく飢える子どもたちを見ていることに疲れたからである。」

戦争中、ルーズベルト大統領は”戦時下で国民が、苦しい生活を送っている時こそ、
娯楽が必要である”との考えの下、”メジャーリーグの継続”を許可した。
これに対して日本の指導者は「欲しがりません勝つまでは」と、ひたすら国民に忍従を強いて、
野球だけでなく多くの娯楽を、制限してしまった。

フランクリン・D・ルーズベルト(クリック20世紀)
(ttp://www.c20.jp/p/roosev_f.html)
第1次世界大戦時のアメリカ大統領ウィルソンの下で海軍次官補となったフランクリン・ルーズベルトは、
日本の膨張に、強い警戒心をいだいていた。
しかしルーズベルトは、柔軟なプラグマティストであった。
第1次世界大戦後、日本がワシントン体制(国際協調体制)を支える姿勢を示すと、
ルーズベルトは『アジア(1923年7月号)』において
「日本の加藤(友三郎)首相は、海軍力削減を、文字通り実施している」と述べ、
軍縮の実現を「画期的」と評価した。
また中国問題については「門戸開放というアメリカの外交方針が、ワシントン会議によって成文化された今、
今度は我々は、日本にとって中国市場が重要なことに、理解を示さねばならない。」と
”日米協調時代”を謳い上げたのだった。
(その後、ルーズベルトの態度が豹変し、日本との戦争に突き進んだのは、残念なことである。
しかしルーズベルトに言わせれば、”日本の態度こそ豹変したのだ”という事になるのだろう。)

ルーズベルト(Yahoo!百科事典)
(ttp://100.yahoo.co.jp/detail/ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt))
ルーズベルト大統領は、明確な政策構想を持ち合わせておらず、
また矛盾した見解の人材を、起用することも多かった。
しかし、そのおかげで政策の幅が広がり、現実にも柔軟に対処することができた。

ルーズベルト(田村のホームページです)
(ttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ruzuberuto.htm)
ルーズベルトは、28才でニューヨーク州議会の上院議員に当選し、
その後、海軍次官に抜てきされ、38才で副大統領候補になるが、敗北する。
その翌年の39才の時、”小児まひ”で下半身の自由を失ってしまう。
しかし彼は”車いす”と”松葉づえ”を使って、政界に復帰、
大恐慌が起こった1929年、47才でニューヨーク州知事になる。
そして1933年、第32代アメリカ大統領に就任した。

フランクリン・ルーズベルトの名言

「3時間、真剣に考えて、結論が正しいと思ったら、
3年かけて考えても、結論は変わらない」他。

「もしあなたが人を正しく扱えば、人はあなたを正しく扱うだろう・・・・・・90%は」他。

「幸福とは、達成の喜びと、ゼロから何かを生み出すスリルの事である」他。

21世紀に残したい世界の名言・格言集
(ttp://www.tt.em-net.ne.jp/~katsumi007/jinnmei/jinmei4105.html)
「自分を過大評価する者を、過小評価するな」他。

名言サプリ
(ttp://message.from.tv/human.php?human_id=70)
「明日しなければならない事があったなら、今日の内になせ」他。

日米戦争(太平洋戦争、大東亜戦争)

日米開戦までの「日米交渉」の過程を、公文書によって、たどるサイト。

フランクリン・ローズヴェルト演説(西洋軍歌蒐集館)
(ttp://gunka.sakura.ne.jp/voice/roosevelt.htm)
ルーズベルトの「屈辱の日」演説(12月8日)。
この演説でルーズベルトは、議会に対して、日本への宣戦布告を要請した。
「音源(mp3)」と「英文」付き。

ニューディール

システム論研究者の「永井俊哉」氏による、ニューディール政策の否定論。

ヒトラーの”全体主義的経済政策”と比較すると、”ニューディール政策”の成果は、不十分であった。
最悪だった1933年のアメリカの失業率(25、2%)は、ニューディールによって、
1937年には14、3%まで下がったが、翌年には19、1%まで上昇してしまう。
結局、失業率が14%以下になるのは、アメリカが太平洋戦争に突入する1941年以降のことである。

これに対してヒトラーは、45%もあった失業率を順調に減らし、
第二次世界大戦前(1939年)までに、失業者数を20分の1にするという成功をおさめた。

大西良雄ニュースの背後を読む
(ttp://www.quon.asia/yomimono/business/oonishi/2008/11/05/1225.php)
経済ジャーナリストの「大西良雄」氏による、ニューディール政策の肯定論。

ルーズベルトの前任者のフーバー大統領は、金本位制の堅持にこだわったため、
アメリカから金が大量に流失、これを防ぐために金利の引き上げを行った。
その結果、デフレ状態下、金融引き締めが加わり、一気に世界恐慌に突入する事となった。

これに対してルーズベルト大統領は、金輸出の禁止、つまり金本位制からの離脱を宣言した。
この”金本位制の離脱(金輸出の禁止)”による”金融引き締めから緩和への政策転換”が、
アメリカ大恐慌からの脱却にとって、最も重要であったというのが、後の経済学者の定説です。

恐慌から回復への政策(林敏彦教授の公式HP)
(ttp://hayashiland.com/KAIFUKU.htm)
”不況時に公共事業”という図式は、ルーズベルトの意図の中には無かった。
ニューディールの期間中、連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は、2回しかなく、
連邦財政赤字がGNPの5%に達することは、まれであった。
ニューディールの効果から、1937年に経済が回復したかに見えた時、
均衡財政論者であったルーズベルトは、財政支出を大幅にカットしてしまう。
そのせいで翌年、アメリカ経済は再度、厳しい景気後退に見舞われ、
新聞は「ルーズベルト不況」と呼んだ。
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